下館惣鎮守羽黒大権現勧請之由来書
(文久元年・清龍寺隠居日想庵寛海)

 この書類は下館城内の田村弥源太様宛となっていて、手紙の写しのようです。田村氏に羽黒神社の由来と七羽黒とはどれをいうのか、という質問に答えた手紙です。

 まず七羽黒は、多良棒下岡崎外塚岡芹小林御本丸八幡宮と相殿(一緒に祀ってある)、そして大町の七つですが、大町は別当の清龍寺のことだ、と書いています。
 さらに、この建物を建てたのは棟札(社屋の建築を記録した絵馬の大きなもの)を見て寛永年間だとわかる。文久元年までに228年経っている。しかし勧請した時期については、二度にわたる盗難に遭い古い書類を盗まれてしまい、いつだかわからないと書いています。

 この清龍寺は、羽黒大権現の祈願所(別当)として、お寺で羽黒の神様を祀っていました。 神仏習合の色合いが濃いのがわかります。
 この中で、鬼門の位置の羽黒神社(羽黒大権現)が小林(おばやし)になっているのが面白いところです。また、本丸の八幡様というのは本城町の八幡神社で、この神社は石川公が勧請したといわれていますから、この記述の通りなら、七羽黒の成立は水谷公より新しくなります。
 さらに江戸期代の住職(?)が、羽黒大権現の勧請時期は、わからないと書いているのに後世の歴史書はどれも堂々と書いているのも不思議です。



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