疑問点3 羽黒神社の神様は誰なのか

 数年前、大町の羽黒神社に大国主命の石像ができましたが、大町の羽黒神社の「今の神様」は大国主命だそうです。今まで羽黒神社は出羽の国の羽黒大権現を勧請した神社だ、と書いてきましたが、それなのになぜ神様は大国主命なのか、という疑問です。祭神は「羽黒大権現」でなくてはならないはずです。

 これはなぜかと言いますと、明治初年の「神仏分離令」のためでした。 羽黒神社の先代の神主だった松崎さんのお宅にあった史料によれば、「権現号」は仏教色が強く、国家神道を標榜する新政府には似合わないと判断したようです。この神仏分離令の中に「権現号の使用禁止令」もあったのです。

 神仏分離令は、廃仏毀釈などさまざまな問題を起こしましたが、時の勢いには逆らいがたく、下館の羽黒大権現も「権現号」をはずし、「羽黒大神」 と改名したという記録があります。ご神体は「観音様」でしたから、現在の 「御幣」に変えたようです。観音像は行基の作という説があり、一時、国宝指定の請願もありましたが受けられず、明治の一時期、蔵福寺に預けましたが、様々な事情で返され、現在は羽黒神社のどこかに保管されているという史料もありました。この観音様は確認していませんが、銅製の鏡に観音様が彫られているものは宮司さんに見せてもらった事があります。

 また、羽黒大権現を祀っていた「清瀧寺」は、城主から賄い料を貰っていた城主の祈願寺でしたから、城主がいなくなればやっていけません。当然廃寺となりますが、「住職」は先ほどの神仏分離令に伴い、神祇官からの「新補許状」を貰い、「羽黒大神」を祀る祭事をまかされ、「神主」に衣替えしたようです。

 大町が神社に改修したとなれば、周辺の羽黒大権現も合わせなくてはなりません。一斉に「羽黒神社」になったのだろうと推測します。ただ、周辺の羽黒大権現がどのような形で祀られていたのかはわかりません。岡芹だけは別当寺として正福寺があったようです。他も似たような祭祀のための仏教施設があったのだろうと思います。

 いずれにせよこの明治初年の大きな出来事を無視して「七羽黒」を語るのは大変危険です。江戸時代までは「羽黒神社」はなかった訳ですから、勝氏や勝隆が造ったのは「羽黒大権現を祀るための施設」だったのです。それはたぶんお寺だったと思いますが、大町と岡芹を除いて史料がありません。



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