疑問点1
なぜ蟠龍斎は二つしか羽黒神社を造らなかったのか
下館城周辺に大町を中心に五つの羽黒神社を造り残りの二つを久下田城の周辺に造ったとする「下館市史」や「下館町郷土史」への疑問です。
久下田城は、北の中村氏を破った蟠龍斎が宇都宮に備えてそれまでもあった古い砦のあとを修復して造った城ということですが、宇都宮に備えたのは事実でしょう。
と、なれば宇都宮は久下田城の鬼門(北東)や裏鬼門(南西)ではありません。北西の方角です。なぜこの方向に造らなかったのでしょう。
この疑問のヒントが海老原麦禅さんの書かれた「水谷蟠龍斎傅」にありました。この本によれば、蟠龍斎にも「四方固め」という発想はあったようです。以下読みやすく抜粋して転載します。
蟠龍斎は弟の勝俊に子供が出来たのを喜び、久下田城下の大根田の入道寺にあった千手観音のために別にお堂を建て、「千手院長栄寺」と名付けて祀り、久下田城の鬼門除けとすることとした。
これに落合村の観世音、久下田西木戸の八幡宮、千代ヶ岡の八幡宮を合わせ久下田城の四方固めとした。
このように、蟠龍斎には「四方固め」の発想があっただけでなく、鬼門には羽黒神社ではなく、長栄寺の千手観音を置いていた事になります。しかも北西の宇都宮方面には千代ヶ岡八幡を置いています。この八幡様は現在もあります。
下館に5カ所、久下田に2カ所というのは、いかにも数合わせのために蟠龍斎を登場させた印象があります。しかも「水谷蟠龍斎傅」によれば、蟠龍斎には羽黒神社という考えはなかったようです。
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