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水谷氏は、 戦国時代から江戸時代初期にかけての下館の城主でした。 下館に始めて城を築いたのは、 水谷勝氏という人で、 今の下館小学校の周辺に城を築きました。 五行川や沼地をうまく利用した城で、 城の回りの堀が渦巻うずまきの形をしていたので、 「ほら貝城・ら城」 と呼ばれました。 又、 出羽の国(山形県)の羽黒山と同じ神様をまつって、 下館の中心地に羽黒神社を作りました。 他にも稲野辺、 外塚、 下岡崎、 岡芹の各地に、 羽黒神社を作りました。 これは、 信仰と同時に下館を守るための砦の役目も持っていました。 さらに菩提寺として定林寺を建てています。 |
水谷氏は、 下館に来る前、 福島県のいわき市の水ノ谷やという所に住んでいた豪族でした。 地名を取って水谷と名乗ったのです。 その後、 縁があって遠い親戚である下館の隣町の結城に来ることになりました。 結城氏は当時大変な勢力を持っていた豪族でしたが、 水谷氏は親戚ということで、 家来とは別格の 「客分」 の扱いを受けていました。 ある時、 戦いくさがあり、 勝氏は結城氏を助け、 大きな働きをしました。 結城氏は大いに喜び、 そのほうびとして勝氏に下館の土地三五〇〇町歩と二八八人の家臣を与えたといわれますが、 これは当時の結城にとっては東と南への前線基地の役目もありました。 |
![]() 本城町・八幡神社の境内にある 下館城址の碑 |
水谷蟠龍斎は勝氏の玄孫にあたり、 下館の六代目の城主でした。 生まれたときは玉若丸といい、 左の目には瞳が二つ重なっていたといいます。 小さなときから活発で大変頭がよく、 弓、馬、剣、槍など、どれをとっても優れていました。 成人して正村と名乗っていましたが、 結城政勝から一字をもらい政村と改めました。 二十二歳の時、 結城からもらった妻の小藤姫を亡くした為、 妻を供養するため出家し、 頭をまるめ蟠龍斎と名乗りました。 蟠龍とは龍が天に昇らず地上に蟠(わだかまる)事を意味し、 妻を亡くした無常感をあらわしています。 蟠龍斎はその後妻を持ちませんでした。 |
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蟠龍斎の生きた時代は戦国時代です。 下館の回りにも敵や味方がたくさんいました。 蟠龍斎はその一生をほとんど戦いに明け暮れた武将でした。 最初の戦いは十六歳の時で、 以来、 戦いの連続でしたが、 いずれの戦いも大義名分によるもので、 自らの領土欲からではなかったといいます。 「畑に地しばり田にびるも久下田に蟠龍なけりゃよい」という言葉が今でも残っています。 地しばりというのは、畑の雑草の一種で耕すときに大変不便です。 びるもというのは多年生水草で、 田んぼ仕事の邪魔になります。 蟠龍斉はこのようなものと比べられるほど敵からは煙たがられたのですが、 それは強かったからに他なりません。 |
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蟠龍斎は、 北の宇都宮氏との戦いに備えて二宮町久下田に城を築いてそこに住むようになりました。 下館の城には弟勝俊が居ました。 又、 蟠龍斎は領地のためにも心を使い、 神社仏閣を修復したり、 白木綿の産地としての育成を図ったり、 宇治から茶種をとりよせて領民に作らせたりと、 産業の育成にも熱心に務めました。 富国強兵策と言えます。 蟠龍斎は慶長三年 (一五九八年) 七十五歳で亡くなりましたが、 生前の功績もあり、 死後も領内は穏かでした。 墓は自らが愛妻と叔父勝吉(五代下館城主・法号を全芳と言った) の供養の為に建てた二宮町の「蟠龍山芳全寺」にあります。 |
蟠龍斎の死後、 戦国の世も終わりに近づいていました。 秀吉が死に、 徳川家康が天下を取りました。 水谷氏は、 徳川方でしたが、 寛永十六年 (一六三九年) 備中成羽へ、 その後松山(今の岡山県高梁市)へ国替えとなりました。 その時の城主は勝俊の子勝隆でしたが、 大変信心深く有能な人でした。 松山に国替えとなってからも、下館と同じように定林寺を建て、 先祖の供養をしました。 又、 同じ領内の玉島 (現在は合併して倉敷市) には羽黒神社を作るなどしました。 今でもそれらは残っています。 これが縁で現在では下館市と高梁市は友好都市となっています。 |
![]() 高梁市に残る備中松山城 |