まず、 常陸(ひたち)の国 (今の茨城県) 下館城の由来からお話します。 今から千年以上前の平安時代の事です。
天皇の子孫の一人である平将門(たいらのまさかど)が、 伯父である常陸の国の大掾(だいじょう・昔の官職・今の県知事クラス)
だった平国香(たいらのくにか)を攻め滅ぼし、 その勢いで関東地方をすべて支配してしまうという事件がありました。 将門は自ら 「平親王(たいらのしんのう)」 と名のり、 下総(しもうさ)の国相馬郡(そうまぐん・今の守谷町付近) に首都を造り、 常陸の国、 大国玉(おおくにたま・真壁郡大和村大国玉) にも城を造って新政権の準備を始めました。 これにおどろいた時の政府の命令で、 藤原忠文(ふじわらのただぶみ)、 源経基(みなもとのつねもと)、 平貞盛(たいらのさだもり)らが鎮圧のために出陣しましたが、 将門の軍はきたえられていて強く、 兵の数も多くてなかなか思うように攻められずにいました。 そこで彼らは、 上野(こうずけ)の国 (今の群馬県) の足利に住んでいた俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)に力を借りる事にしました。 秀郷(ひでさと)というのは文武両道に優れた人物で、 強力な援軍になると思ったからでした。 秀郷はこの頼みを引き受け、 まず大国玉の城を攻めようと常陸の国伊佐(いさ)の地方へ進軍して来ました。 秀郷は、 この地方の地形を見て理想的な城になる地形だと思い、 すぐに上館、 中館、 下館の三つの館を築きました。 これが 「下館」 という地名の由来だと言われています。 ここには、 五行川が東に流れ、 西には平野が広がり、 後ろには大小の丘が連なり、 田や畑が前にあり、 近くには湖水が城を巡り、 遠くには鬼怒川が常陸の国と下総の国を隔てています。 自然の要塞になっているすばらしい土地だと見抜いたのです。 このような地形を、四神相応(ししんそうおう)といって、 東西南北にそれぞれの方角を守る神様がいるめったにない土地だというのです。 秀郷はこの館に陣を構えて、 大国玉の将門(まさかど)との戦いに備えました。 ついに決戦となりましたが、 さすがの将門も秀郷を始めとする連合軍にはかなわず、 大国玉の城を捨て、 相馬郡守谷へ逃げてしまいました。 秀郷の連合軍はこれを追いかけ、 大激戦の末ついに将門は討ち取られてしまいました。 天慶三年 (九四〇) 二月十三日の事でした。 秀郷はこの時の勝利によって政府から 「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」 に任命され、 武蔵の国 (今の埼玉県と東京都) と下野の国 (今の栃木県) の最高責任者になりました。 この事件の後は必要のなくなった三つの館も絶えてしまい、 廃墟(はいきょ)となってしまいました。 しだいに訪れる人もなくなり、 草深くなっていきました。 |